2023/05/29
犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は、自分の愚かさを繰り返す。 箴言26;11
なんともひどい格言であると思われる方も多いだろう。何せ、喩えで、犬がその吐瀉物をまた口にするなどと表現するのだから。ペットを家族の一員として大事にする方々にとっては許し難い侮蔑の言葉であるだろうし、動物愛護協会からは、飼い犬への虐待として訴えられる案件であるにちがいない。しかし、残念ながら聖書には、このように犬をネガティブなものとして表現する箇所が多々見られるのだ。ちなみに調べてみれば、旧約、新約を含め50以上の犬という言葉が出てくる。しかも、そのほとんどが、今回の箴言のように、悪いものの譬えとして表現されているのだ。イエスも、山上の説教の中で、「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるだろう」(マタイ7:6)と言う。ちなみに、この聖書の言葉から「豚に真珠」のことわざが生まれたことはよく知られている。
また、使徒パウロも、自分に敵対するユダヤ人たちに対して、「あの犬どもに注意しなさい」(フィリピ3:2)とフィリピの教会に宛て手紙の中で呼びかける。そして、極めつけは、今回の箴言を引用し、「ことわざに『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」(Ⅱペトロ2:22)と、せっかく罪の赦しを得ても、また元の罪ある生活に戻ってしまう人々のことを厳しく糾弾するのだ。
確かに、この喩えの表現自体は、現代社会に生きる私たちにとって、配慮の欠いた言葉に思えるだろう。しかし、その内容は、時をこえ、場所を超えて、今も変わらぬ普遍的なテーマを指し示しているのではないだろうか。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ロマ7:15)、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。」(ロマ7:19)、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:24)。この嘆息の混じったパウロの告白は、まさに一度は吐き出したはずの罪や悪を、もう一度その口に戻してしまいそうになる私たち自身の真実の姿なのだ。ローマのコソ泥が、サン・ピエトロ大聖堂の懺悔室に行ったその足で、また街へと出ていくのと同じ。いくら主イエスを信じ、その十字架の贖いによって罪を赦されと告白しても、愚かな私たちは、また元の腐り果てた罪に戻っていくのだ。
では、もう私たちは、この罪の連環から逃れることができないのだろうか。「犬がその吐いたものに戻るように」、「豚が洗ったばかりの体を泥の中で転げ回るように」、主イエスの十字架によって罪赦されたと信じながらも、私たちはこの罪の縄目から解放されることはないのだろうか。
残念ながら、私は、この問いに対して「ない」としか言うことができない。しかし、同時にないからこそ、私たちは、あるを求め続けるのだ。ないからこそある。私たちは、いつもその間を揺れ動きながら、なお信じ続ける。
私は、犬のもう一つの喩えを知っている。それは「忠犬」。渋谷の雑踏を、飼い主が戻ってくるのを何十年も待ち続けたハチ。それは、再び帰って来られる再臨の主を待ち望み、愚かな罪人から必ず救い出されるのだと信じ続ける者の模範の姿なのだ。自分の愚かさを繰り返すことは、愚か者の姿である。しかし同時に、待ち続ける者は忠実な者の姿なのだ。
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