2023/04/10
時宜にかなって語られる言葉は、銀細工に付けられた金のりんご。 箴言25;11
「光ったナイフは拾われる」。我が師石川洋先生が教えてくれた言葉だ。錆びたナイフは落ちていても誰も拾わない、しかし光ったナイフは必ず拾われる。かつて沖縄の離島で生活し、時としてその単調な暮らしに嫌気がさしていた私に、師は、こんな言葉を持って厳しく戒めてくれた。光ったナイフのように、日々自分磨きを怠らぬように、この言葉を思い出すたびに、今も、冷や汗が出る。果たして、私は日々の暮らしの中で、この鍛錬の時を怠ることなく続けているか。毎日をただ無意に、ひねもすのたりと過ごすことのほうが多い、私にとって、時として思い出される師の言葉は、まさに箴言の言う「時宜にかなって語られる言葉は、銀細工に付けられた金のりんご」(箴言25;11)として響いてくる。どんなに美しい銀細工も、しかし、そこに付けられた小さな金んのりんごによってこそ、際立った光を光を放つ。ただ漫然と聖書の言葉を眺めるのではなく、その中にある、金のリンゴを見出すこと。そして、それは、必ず、私自身をも、光ったナイフとして見出してくれるに違いない。
ところで,この「光ったナイフ」の出典を調べていくと,どうもそれが,清沢満之(きよさわまんし)と言う、明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶の残した言葉(「名言ナビ」より)に行き当たるのだ。「光ったナイフは,草原の中に捨てられていても,いつか人が見出すものだ」。
東京帝国大学の哲学科で学び,請われて京都府尋常中学校の校長となるも,東本願寺の改革運動を志し,上層部と対立する。そのせいで一度は宗門より除名処分を受けながら,後に,それを解かれ,大谷大学の前身,真宗大学の東京での開学に尽力するも,肺結核で,わずか40年の生涯を閉じる。しかし,彼の徹底的な禁欲自戒生活における思想は,精神主義として今も,宗派教派を問わず多くの人々に影響を与えている。岩波書店から,全集が出版され,「第3次復権として,再び脚光を浴びつつあるという」(ウキペディアより)。まさに、その残されたものは,時代を超えて,光ったナイフとして,拾われ続けているのだ。
私たちの人生は,漫然とした繰り返しではない。不遇の時にはくさらずに,好機の時にもおごらずに、ただひたすら,今日なすべきをやる。それが,きっと光ったナイフとなり,銀細工につけられた金のりんごとなるのだから。
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