2022/11/25
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから逸れることがないであろう。 箴言22:6
久しぶりに会う孫娘たちに、何か、買って行こうかと妻に相談したら、絵本の聖書がいいんじゃないかしらと言われた。てっきり、ディズニーの「アナ雪」のおもちゃか何かと思っていたのに、その答えに驚くと同時に、なんだか懐かしい思い出がよみがえってきた。
そういえば、息子たちがまだ小さかった頃、沖縄の家ではよく、家庭礼拝を守っていた。4人で聖書を輪読し、簡単な祈りの言葉で祈る。そんなシンプルなものだったけれども、彼らの心の中には、きっと深い印象を残していたに違いない。
その時は、まだ字も読めなかった弟が、絵で描かれた聖書物語をいろいろ想像して、でたらめに読み上げるのは、面白かったな。兄弟喧嘩するたびに、重い聖書を引っ張り出し、「お兄ちゃんより先に神さまは僕を造ったんだぞ」と弟の光太が、兄の空に泣きべそかきながらも抗議していたのも懐かしい。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」(創世記1:3) 、「神は言われた『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』」(創世記1:6)と。
そんな懐かしい思い出に浸りながらしかし、この信仰の継承ほど難しいものはないとつくづく思っている。特に昨今の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が国会でも問題視される中で、その信仰を強要された子供たち、いわゆる宗教2世の苦悩が公に語られるようになった。もちろん、いわゆるカルト教団による異常とも思える洗脳教育と正統派キリスト教の宗教教育を同じに語ることはできない。しかし、いくら違うと強調しても、一般の人の目には程度の差こそあれ同じ宗教に見えてしまうだろう。信仰は誰もが自分で選ぶことができるという信教の自由を認めつつも、自分の大事にしているものを、子供たちにも伝えたいと思う心は、信仰者が持つ自然な思いなのだ。
「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから逸れることがないであろう」(箴言22:6)。確かに、この知恵の言葉は大切なものだ。しかし、その大切なものを継承するための信仰教育を、どのように行うのか、それが問題なのだ。
一方的に自分の信仰を子供に押し付け、有無を言わさず、それを強制することは、全くの逆効果。それよりはむしろ、私たちは神を信じ、神に委ね、そして静かに祈り求めることなのではないか。信仰の継承は大切なことである。しかし、同時に「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないのです」(コロサイ3:21)とあのパウロが気遣ったように、私たちもまた、そんな思いを持って子供たちに、孫たちに大切なものを手渡していかなければならない。
春ちゃん、道ちゃん、どうか、あの聖書を一緒に読んでくださいね。お願いしますよ。
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