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榎本恵牧師のコラム

2022/06/03

どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。   箴言17:17


ほんとうの友情とは何か、そんな正解のない答えを求めて、仲間と共に夜遅くまで語り合っていたころが懐かしい。気がつけば、今では、そんな青臭い議論を真剣に交わす友もいなくなった。自分の困っている時には、いつもそばににいてくれて、用が済めば、パソコンの画面をパチリと切るように消えてしまう、そんな都合のいい友達など、どこにもいないはずだのに。人は、いつもそんな絵に描いたような友を求めているのかもしれない。けれども、それはいつも壁にかけられたまま。人は時々、その絵にかかった埃を払い、しばし眺め、いつの間にか、ひとりぼっちの寂しさに、ため息をつく。

「どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる」(箴17:17)そんな、苦難の時に兄弟と呼べる友が、あなたにはいるのか。また、あなたは苦難の時の本当の友となれるのか。これは、大変重い、知恵の言葉の問いかけだ。友なきものの友となる、私たちは簡単に歌いはするけれど、現実は、そんな簡単なものではない。「君と僕は同じ未来を見ている、ゴールまで、2人の力で駆けて、駆けて、駆け抜けよう」。聞いた時から歯の浮くようなこの台詞に、うんざりしてはいたが、今となっては、お互いをファーストネームで呼び合った2人が哀れに思えてくる。もちろんあの見事に梯子を外された自称教育者夫婦共々。

そんなことを考えながら、いつもの新幹線に乗って、ふと目をやるとこんな言葉の広告が目に入ってきた。「優秀な人は会えばわかる。しかし、信頼できる人かどうかは、時間をかけないとわからない」。なかなかいい言葉だと思って最後まで読んで、思わず2度見してしまった。ああ、なんとこの広告主は、某大手証券会社ではないか。「私たちは、最高のウェルネスマネージメントサービスを通じ、お客さまのさまざまなライフステージにおいて、真の豊かさの実現をお手伝いしてゆきます」と自信たっぷりに語る、この言葉に、先の国の元リーダーの胸を張り身振り手振りを交えて語る、空疎な演説を思い出すのは、私だけではないだろう。

では、いったい真の友情とはどこにあるのか。そんな時、私は主イエスのことを思い出した。「なんという友なのだろうか、イエスとは」。果たして、イエスは、自分を裏切り、まさに今売り渡すために、口づけをしようと近づいてきたユダにこう呼びかける。「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26:50)と。けれどもそれは、決して壁にかけられた絵ではない。なぜなら、主は今もこんなものをも、友と呼んでくれる、その現実を私は知るからだ。そう、自分の都合のいい時だけ主よと助けを求め、あとは忘れたように平気で生きる、とっくに見捨てられてもおかしくない、この何度も何度も裏切り続ける私さえも赦し、愛し、友と呼んでくれる方がおられる。

確かに、私たちの住む世界は、どこにも真な友情など見出すことのできない場所のように思える。しかし、その時、思い出してほしい。自分を裏切ることになる弟子たちに向かって、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)と言われた方のことを。

真の友情は、ここにある。

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