2022/04/04
目に光を与えるものは心をも喜ばせ、良い知らせは骨を潤す。 箴言15:30
「古代人は目について、光が入ってくる窓としてではなくて、光を放射し、そうすることにで外部の世界を捉える明かりとみなしていた」(D,R,Aメイアー著「現代聖書註解マタイ」より)。イエスは山上の説教の中でこう言われる。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(マタイ6:22)と。ここで言われる「目が澄む」と言う言葉は、「単純な」とか「単一の」と言う意味だそうである。確かに私たちの心は、複雑になればなるほど、暗くなる。「これも正しいけれど、あれも正しい」、「これも良いが、あれも良」そう考えているうちに、いつのまにか私たちは「迷い道くねくね」となってしまうのではないだろうか。思い煩いとは、この一つを選びきれない、私たちの濁った目にあるのかもしれない。「だれも二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。イエスははっきりとそして単純に「富と神」の問題を語られた。私たちが本当に従うべきものは富ではなく神であると。
しかし、そのことをわかっていながら、私の中の複雑さが、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」と揺れ動き、最後には、金持ちの青年のように、顔を曇らせてその場を立ち去ってしまうしかないのだ。しかし、本当に私たちの目を輝かせ、その体の骨の隅々までを潤すものは、たった一つの澄み切った単純な目に他ならないのだ。
澄んだ目の光を失った人たちよ、濁った目になってしまった人たちよ。さあ、今こそあの単純で、純粋な心のともしびを取り戻そうよ。あらゆるものが複雑さの中にある今、心を喜ばせ、骨を潤す、たった一つの良い知らせを思い起こそうよ。
かつて私の父は、口癖のようにこう言っていた。「現実から今を見るのではなく、約束から今を見よ」と。私たちが今、日々接するニュースは、暗く重い。戦争、疫病、地震や火山噴火、政治や経済の危機。そんな現実は、私たちの気を滅入らせ、心を鬱々とさせる。そしてついには、心のともしびは消え入り、全身までもが暗くなってしまう。しかし、そんな時にこそ目を見開き、神の約束から今を見るのだ。たとえ現実がどうであったとしても、その約束を見るのだ。それは必ず、私たちに希望を与えてくれる。
39歳の若さで凶弾に倒れたアメリカのマルティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、黒人差別の激しいアメリカの現実の中で、夢を語った。それは、ただ夢見る男の夢想ではない。それは確実に彼が神から預かった約束なのだ。「友よ、私は今日、みなさんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでもなお私には夢がある。(中略)それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、共に兄弟愛のテーブルに着くことができることである。(中略)これが私たちの希望なのである。こう言う信仰を持って、私は南部に帰る。こういう信仰があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことができるのである」(1963年、ワシントン大行進の際に行われたスピーチ「私のは夢がある」より)。
そうなのだ。この21世紀の暗黒の世界にあって、しかしなお、私たちはその心のうちに光を灯そう。現実から今を見るのではなく、約束から今を見よう。そして絶望の岩から希望の石を切り出そうよ。
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