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榎本恵牧師のコラム

2021/03/29

わたしの教えを瞳のように守れ。   箴言7;2


月に一回、理容院へ行って、髭を剃ってもらう時、「眉毛の下剃っておきましょうか?」と聞かれることがある。深く考える事もなく「はい」と答えると、本当に上手に剃刀を当て、眉の形を整えてくれる。こちらとしては、眉毛が野武士のように跳ね上がっていようが一向に構わないのだが、やはり綺麗に整えてもらうと気持ちがいいものだ。けれども、この眉毛やまつ毛、その本来の役割とは、目を守ると言うことなのだそうだ。まつ毛の周りには非常に敏感な視覚神経が集中しており、遺物が侵入しようものなら瞬時にまばたきし、それを防ぐのだそうだ。また眉毛も、落ちてくる雨水や汗、ほこりが直接目に入ってくるのを防いでいるという。もちろん、眉毛もまつ毛も、大事なおしゃれの一部。描いたり、剃ったり、伸ばしたり、曲げたりと、忙しい日々を送っておられる方もおられるだろう。もちろん守ってもらうのなら、ザンバラ髪の落武者よりは、キリッとした若侍にお願いしたいと思うのは、人の常というものだ。しかし、何度も繰り返すが、眉やまつ毛の本来の役割は、大事な目を守ると言うことなのである。

ソロモンの箴言は、子に対し、父の戒めと教えとを、その瞳を守るように守れと諭す。そしてそうすれば、「よその女から、滑らかに話す異邦の女から守ってくれる」というのだ。どうも、箴言の知恵の言葉は、いつも偏見に満ちているように思える。特に女性というものに対して。

しかし当の本人、ソロモンは「ファラオの娘の他にもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(列王11:1)と言われ、700人の王妃と300人の側室がいたという。いったいどの口が言うのか、とも思うが、聖書は、ソロモンが、その異邦の女たちに心迷わせ、主なる神の掟を捨てた故に、後に王国が分裂したと厳しくその背信を問う。唯一の神を信じ従い行くことは、その神だけを愛さねばならないことなのだ。それこそが、「あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな」(箴7:25)と言う、反面教師としてのソロモンの箴言に違いない。

ところで、イエスは、その目についてさらに厳しく問う。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」(マタイ5:29)と。律法の「姦淫するな」という掟は、それを目で見ただけでも、すでに破っているとイエスは糾弾する。とにかく山上の説教と言われる、その徹底した教えは、とても現実の私たちの努力や心がけで守ることのできないものばかりである。むしろそれを「できる」と言ったところから、もうすでに偽りが始まっているのだ。「体のともしびは目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(マタイ6:22)、この言葉は真実である。

私たちの目は、常に神の掟から離れ、私たちを罪に陥れる。アダムとエバが、禁断の木の実を口にした時から「その実はいかにもおいしそうで、目を引き付け」(創3:6)た。この濁った暗い目を私たちは原罪として持ち続けている。そしてその目は、もうまつ毛や眉毛だけでは守りきれない。また、私たちの努力や心掛けだけでも守ることはできない。

このどうしようもない目を持つ、私たちの罪を解決するのは、主の憐れみによるほかない。それはもう守るのではなく守っていただくしかないものなのだ。「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」(詩17:8)と神に向かい、詩篇の詩人が詠ったように。私には、それがソロモンの箴言と対になって響いてくる。

主よ、どうかこの濁った暗い瞳をお守りください。

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