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榎本恵牧師のコラム

2020/12/29

人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。   箴言5:21


「お天道様が見ている」。おそらく誰もが一度は耳にした言葉なのではないだろうか。どんな悪事を働いても、隠しおおせることはできない。いつか必ず、陽の光のもとに曝け出され、その報いを受けねばならない。この「お天道様」を、日本に最初にやってきた宣教師達は、神「ゼウス」の翻訳語として使ったという。神田千里氏の著書「戦国と宗教」によると「この天道の観念は、当時の戦国大名はじめ、日本人には極めて一般的な観念であった。言い換えれば、日本人がキリスト教の神を理解し、共感する事はそれほど困難ではなかったことが予想される」(「戦国と宗教」岩波新書)のだそうだ。

確かに、日本人の宗教教育や道徳教育の原点は、この見えない神が見ているという畏れから始まっていると言っても過言ではないだろう。ところが、現実の世界はと言うと、お天道様はもはや雲の中にお隠れになってしまったのかと思わざるを得ないような状況だ。政治家も、経営者も、労働者も、教育者も、いや宗教家さえも、誰一人として、お天道様のことなど気にもかけずに生きているように思えて仕方ない。

「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること」(コヘレト2;24)。こんな聖書の言葉を知ってか知らずか、自分だけは大丈夫と、政治家の先生方は、コロナ禍の自粛中でも、せっせと会食をし、それが露見し叩かれると、言い訳を並べたて、逆ギレする始末。けれども、それに対して眉を顰める私たちも、胸に手を当てて、よく考えてみれば、結局は、神の目よりも、他人の目や世間の目の方を恐れているだけに過ぎないのではないだろうか。もはや21世紀の近代社会にあっては、お天道様の目など気にすることなく、自分の腹を神とし、世間からのバッシングや批判さえなければ、何をやっても自由ではないか、と生きていくことこそが、成熟した大人の生き方なのだろうか。

いや、決してそうではない。パウロは、そんな神など恐れず、刹那的に生き「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15;32)と嘯く人々に向かってこう喝破する。「思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする』のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」(1コリント15;33)と。見ているか見ていないのかわからないお天道様の目を意識するのも、あるのかないのか、エビデンスなど一つもない天の御国を信じるのも、それは今を正気で、身を正して生きるためのものなのだ。

これから始まる新しい年は、一体どんな年になるのだろうか。世界はますます混沌とし、人の心は乱れ、社会は荒んでいくのかもしれない。けれども、こんな時であるからこそ、私たちは、正気を保ち、全てを見ておられる神を信じ、歩んでいこう。「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる」(箴言5:21)のだから。

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