2019/05/07
親切な言葉は、蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。 箴言16:24
「親切な言葉は、蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。」(箴言16:24)この美しい旧約聖書の知恵の言葉に対して、「待てよ、そうは言うけれど、他人の不幸は蜜の味の方が本当なのではないだろうか」などという不謹慎な思いがむくむくと湧き上がってくるのは私だけではないだろう。
「『シャーデンフロイデ(Schadenfreude)』とは、ドイツ語で、誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情」(中野信子著「シャーデンフロイデ他人を引きずり下ろす快感」)のことをいうのだそうだ。脳科学者の中野信子氏は、「愛し合ったり、仲間を大切にしたいという気持ちが湧いてきたり、安心感や活力、幸福感をもたらしてくれたりする」オキシトシンという脳内物質が、「これらの効果と同時に、妬み感情も強めてしまう働きを持ち」、遂には「妬みからシャーデンフロイデに至る一連の感情の流れを強めてしまう」と解説する。確かに愛情という最も好ましい感情が、時として強い妬みへと変わり、いつしか、誰かを引きずり下ろすことによってそれを解消し、快感となってしまう。なんとも嫌な気持ちにさせる論考だが、彼女の分析は的確で、現代人の病巣を明らかにしてくれるのではないだろうか。
私たちは、いつも妬みの感情に支配されやすい。(「妬み」と「嫉妬」は心理学上は違うものであり、「妬み」は自分よりも上位の何かを持っている人に対して、その差異を解消したいというネガティブな感情のことだそうだ)私たちは、有名な芸能人や偉い政治家、また成功した起業家たちが、逮捕されたり、失敗したり、その地位を追われたりして、執拗に叩かれる姿を見ながら、どこか快感とまでは言わないとしても、ほくそ笑むことがあるのではないか。テレビの向こうに映る彼ら彼女らの姿に「やっぱりな」とか「ざまあないな」と呟きながら箸を運ぶ姿。それをネット上のスラングで「メシウマ」というのだそうだ。「他人の不幸で今日も飯がうまい」と喜ぶ社会。それは、まさに病んでいるとしか言いようがない。
このような社会の中で、果たしてこの「親切な言葉は、蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。」(箴言16;24)などという聖書の言葉は、この世では通用しない、きれいごとの言葉に過ぎないのだろうか。いや、私はそうは思わない。それよりはむしろ、このシャーデンフロイデ(他人を引きずり下ろす快感)に満ち溢れたこの時代であるからこそ、この「親切な言葉」が必要になってくると思っている。
しかし、それは「親切そうな言葉」ではない。「親切そうな言葉」は、私たちの住むこの国に溢れかえっている。駅に立てば、「電車が近づきます。白線の内側におさがりください」と丁寧に注意してくれ、街を歩けば、どこもかしこも、「おもてなし」の言葉があふれて、どんな小さな買い物をしても、店員は、「ありがとうございます」と深々とお辞儀をしてくれる。けれども、それは本当に「親切な言葉」なのだろうか。もしかするとそれは「親切な言葉」ではなく、「親切そうな言葉」なのではないか。「親切な言葉」と「親切そうな言葉」この二つは似て非なるものなのだ。そして、今私たちが必要としているのは、「親切そうな言葉」ではなく「親切な言葉」なのだ。預言者ナタンが、ダビデ王に、バテシバとの姦通を諌め、「その男はあなただ。(中略)なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。」と指弾し、主イエスが、ペテロに、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私を知らないというだろう」(マタイ26:34)と言い放ち、
使徒パウロが、ケファ(ペトロ)に向かって、「非難すべきことがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」(ガラテヤ2:11)と毅然と書き送ったように。
私たちが求めてる親切な言葉とは、当たり障りのない、ただの優しい言葉ではなく、真実の言葉なのだ。「シャーデンフロイデ(他人を引きずり下ろす快感)」、「他人の不幸は、蜜の味」、「メシウマ(他人の不幸で今日も飯がうまい)」などの言葉の方が真実であると思い込んでしまいやすいこの世にあって、それでもなお「親切な言葉は蜜の滴り」と私は叫びたい。
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