2019/07/31
見ないのに信じる人は幸いである。 ヨハネ20;29
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ。建築家として、実業家として、また教育者として、そしてなによりもキリスト教信徒伝道者として知られる彼には、もう一つ詩人としての顔がある。1960年に出版された「東と西の詩集」は、彼が若き日より書きためてきた詩を一冊の本にまとめたものだ。
この詩集の序文に、彼の妻であり、苦楽を共にしてきた同労者でもある一柳真喜子がこんなことを書いている。「G.A.ジョンストン ロス牧師は、メレル ヴォーリズに出会った際の感想を『この年代には、めったにない珍しい青年だ;彼はイエスを本気で信じている』と述べています。事実、イエス・キリストは、メレルにとって、着手しようとするすべてのことへの、強力な誘因や励みとなっています。」
まだまだ日本が明治維新の変革期にある頃、遠くアメリカ中西部カンザス州から、若干25歳の青年ヴォーリズは琵琶湖畔の近江の地へやって来た。そこで公立学校で英語教師として働くが、バイブルクラスを行いキリスト教伝道をしたが故に排斥され、わずか2年余りで教職を追われることになる。しかしながら、彼はこの地に踏みとどまり、「近江兄弟社」を結成し、キリスト教伝道と共に、建築、実業、医療、教育に従事する大事業を立てあげ、近江八幡市の名誉市民第1号となった。しかし、その華々しい経歴の影には、最大の危機、母国アメリカと日本が太平洋戦争へと突入し、敵と味方に分かれ戦うという悲劇を経験する。彼はアメリカの市民権を捨て、日本国籍を取得し、日本にとどまる決心をする。しかしこれほどまでに愛した近江の地と近江兄弟社を追われ、戦中はすべての役職を解かれ、軽井沢へ半ば幽閉されるのだ。戦後再び近江八幡へ戻り、戦争の傷跡からの復興に尽力するが、志半ば病に倒れ、闘病のうちに1964年天に召される。そんなヴォーリズの波乱万丈の人生を妻真喜子はこう述懐する。「彼のビジョンを実現するのに、まさに半世紀の時間を必要としました。しかし、これらの活動を通じて、人生においてイエスの原理を維持することは容易ではなく、時として、落胆が激励を上回る事がありました」(「東と西の詩集」より)。けれども彼女は続けて「だが、彼は如何に不可能と見える事態にも、決して屈服することはありませんでした。」と確信に満ちて語られるのだ。
「イエスを本気で信じる」こと、それは大変難しいことだと、改めて思う。たとえ牧師であっても、「あなたは本気でイエスを信じていますか」と問われ、なんの躊躇もなく「はい」と返事のできる人は、珍しいかもしれない。「湖の上を歩いたとか、水がぶどう酒に変わったとかは、どうもそのまま信じることはできない」と言われる方もいるだろう。もちろん、本気で信じるとは、ただなんの疑問も持たず、頭ごなしに信じればいいというものではない。そのような盲目的信仰は、かえって危険でさえあるのだから。では本気で信じるとは何なのか。それは、この「落胆が激励を上回る」事の多い人生の中で、それでもなおイエスを信じていこうとする、自分自身の不信仰との闘いの姿なのではないか。信じようとしても信じられない自分と闘い、葛藤し、それでもなお信じていこうとするもの、これこそが、本気の信仰なのではないか。イエスの復活を信じる事の出来なかった弟子トマスに、イエスはその十字架の傷跡を示しながら、こう言われるのだ。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20;29)と。
本気になると
世界が変わってくる
自分が変わってくる
変わってこなかったら
まだまだ本気になっていない証拠だ
本気な恋
本気な仕事
ああ
人間一度
こいつを
つかまんことには
坂村真民「本気」
イエスを本気で信じる者。この時代には珍しい稀な者。それは、とても凡人である我々には無理であるように思える。しかし、この詩人が詠うように、「人間一度、こいつをつかまんことには」である。ヴォーリズのように、イエスを本気で信じる者に、こいつを本気でつかむ者に私はなりたい。
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