2021/07/30
浅はかな者は誰でも立ち寄るがよい。 箴言9;4
箴言の言葉は時として、私たちの心に深く鋭く突き刺さってくる。この箴言9章では、知恵を7本の柱を刻んだ家から呼びかけるはしための声として喩えている。高い所から「浅はかな者」(新共同訳)、来よと、それは呼びかける。ところが、面白いことに知恵だけでなく、騒々しく、浅はかな愚かな女」も同じ言葉をもって、家の戸口で呼びかけるのだ。
「知恵」と「愚かさ」。この二つは、全く正反対の様でいて、実は同じものなのかもしれない。二つは、紙一重。聞くものによって、それは「命を得るための分別の道」(6)にも、「死霊の住む深い陰府への道」(14)にも、どちらへも続いていく。
パウロは、コリントの信徒への手紙の中でこう書いている。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1;18)と。
かつて、パウロは、ギリシャ最高の文化都市アテネで、エピクロス派、ストア派といった錚々たる哲学の徒を前にして、イエス・キリストの福音を語り、彼らを論破しようと試みた。ところが鮮やかな弁舌をもって、「’あなたがたが知らずに拝んでいる神を教えよう」と、意気込んだパウロは、最後にこの福音の確信、「復活」に触れた途端、彼らから「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒17;32)と嘲笑われてしまったのだ。「死んだものが生き返る」。アテネの知識人にとって、復活の出来事は、荒唐無稽の作り話にしか聞こえなかったに違いない。彼らの知恵には、復活など愚かなことであったのだ。
果たして、私たちの聞く福音は、愚かな言葉なのか、それとも命へと至る知恵の言葉なのか。それは、まさにそれを聞く者、すなわち私たち自身によって、決まっていく。
ところで、箴言9章は、その愚かさを聞く者を、「自分の道をまっすぐに急ぐ人」(15)だという。なんと興味深い表現だろう。英語では。「minding their own business(自分のことに専念する)」(TEV)とも訳されている。わき目もふらず、自分の仕事にのみ気を配り、人から何か言われようものなら「not your business(あなたと関係ない)」と切り捨てる。ゴールに至る最短、最速の道を見出し、いかに効率よく進んでいくのか、それだけが人生の目的である人は、「自分の道をまっすぐに急ぐ人」だ。そんな人を誘惑する言葉を箴言はこう言う。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまい」(17)と。まことに言い得て妙だ。人を出し抜き、密かに見つけ独り占めした取り分にほくそ笑む。それは賢そうでいて愚かな人間の姿だ。その道は必ず滅びに至る。
一方、知恵の道を聞く者について、箴言は特別には何も語らない。二人はともに「意志の弱い者」、「浅はかな者」だと同じ言葉が並べられる。しかし、その食べるパンは、「わたしの与えるパン、そしてわたしの調合した酒」だと知恵は語る。
人生の不揃いな曲がりくねったパンと人生の酸いも甘いも調合され、味わい深かく芳る酒。それこそが、実は、一見愚かに見えるが、実は最も確かな救いの道なのだ。「まっすぐに急ぐ人生」ではなく「道草を食ってばかりの人生」こそが、しかし、神によって最善の道にかえられる。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。あなたもどうぞ、ここへいらして下さい。
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