2021/02/26
我が子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。 箴言6;20
あと半年で、オリンピック開催か、というこの時、大会組織委員長の女性蔑視発言で、またもや混乱の中にある東京オリンピック。もういっその事やめてしまえばと思うのは、私だけではないだろう。それが証拠に、世論調査では、8割を超える人が、東京オリンピックの再延期、もしくは中止に賛成している。
ところが、この「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」とのトンデモ発言をした元総理大臣に近い人たちは、なんとかこの問題を小さくし、隠すために後任の委員長を女性の元オリンピック選手の国会議員を当てるらしい。また、当の本人も、オリンピック憲章「肌の色や性別、宗教など如何なる差別もゆるさない」という事柄の本質よりも、「私の不注意もあったと思うが、本当に情けないことを言ったもんだな」(辞任会見)とまるで、徒然草の「高名の木登り」よろしく、「過ちは、やすき所になりて、必ず落つと侍るやらん」と最後に来て失言したことを後悔しているだけにしか思えない。
問題は、私たちの国が、社会が、そして私たち自身が、あらゆる差別をなくし、少数派の人々の権利を守り、自由で開かれた社会をつくる覚悟を持っているかどうかなのだと思うのだが、そのことを考えると、途端に顔が曇り出してしまう。人を指弾したその指が自分自身に突き刺さってくるからだ。私や私の属しているキリスト教の世界は、一見すると進歩的で、開明的な場所であると思われがちだ。しかし、実際は、多くの教会が、男性優位のままであることは、その役員構成が、オリンピック組織委員会並みであることを見ればすぐにわかる。カトリックでは、まだまだ女性聖職者は認められず、教派教団によっては、制度上は性差別を撤廃しているとはいえ、個々教会の現実は、牧師招聘や会議の場において、まだまだ旧態依然のままであると言っても過言ではないだろう。
いや、それよりも何よりも、聖書そのものが、そしてそれを背景として語られる言葉が、時として差別を増長するものであるのだから、問題の根は深い。
以前、アメリカのメソジスト教会で長く牧会をされてきたM牧師をアシュラムセンターへお迎えしたことがある。彼女は広島女学院を卒業され、単身アメリカへ渡り、そこで牧師の資格を得、デンバー、ハワイの教会で働いておられた。私は、彼女がデンバー時代に、何度か訪問し、自宅にも泊めていただき、良き交わりを持たせていただいていた。引退後、日本に帰ってこられた時に、一度アシュラムセンターでご奉仕をお願いしたことがある。それは朝の早天祈祷会でのことだった。説教が終わり、順番に祈っていく中、私がいつものように「天の父なる神様」と祈った後に、続けて彼女は静かに「天の父なる、母なる神様」と祈られたのだ。事はここまでだが、あの日の先生の祈りは、今もずっと私の心に残っている。
確かに、私たちは、「天の父なる神」と、なんのためらいもなく呼ぶ。イエス自らも、弟子たちに「あなた方の父は天の父お一人だけだ」(マタイ23;9)と諭し、「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神』だと言っている」(ヨハネ8;54)とイエスを批判するユダヤ人たちに答える。そういう意味では、処女マリアより生まれ、地上を歩かれた神の子イエスの父は神であるということになるだろう。しかし、果たして天地創造を成し、万物を造り出された神を、最後の審判者として立ち、同時にすべての人の救いのために我が子を十字架につける、その神を父という名でのみで記すことは、正しいことなのだろうか。そんな疑問が湧き起こってくるのだ。
そんな中、箴言の言葉を読む時、私たちは、その男尊女卑の言葉に、時として目眩を起こしそうになる。しかし、それでもなお、この知恵の言葉はこう記すのだ。「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな」(箴6;20)と。神様は父性なのか、それとも母性なのか。それとも両方なのか。その難しい議論については、神学者たちにお任せしよう。ただ私たちは、それが母であれ、父であれ、その戒めと教えを、灯とし、光とし、命の道を歩むものとなろう。この差別に溢れ、小さくされた者たちがうめき、不正のはびこる世にあって。
さて、次の東京オリンピックの組織委員長は、聖なる子という名のついた方に決まったが、果たして、その名の通り聖なるものとして行われるのか、それとも行われなくなるのか?
それは、天の父なる、母なる神のみが知るのだろう。
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