2021/08/27
怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。 箴言6:6
小学3年生の国語の教科書に、「ありの行列」(光村書店)というお話が載っている。私たちの少学生時代だと、「ファーブル昆虫記」だったが、今の子供たちは、アメリカのウイルソンという学者の実験について、学んでいるそうだ。ファーブルは蟻の行列に、石を置いたり、箒ではいたり、水をかけて流してしまったり、色々な方法で、その行列の途中を遮る実験をする。しばらくは道を失い混乱するのだが、蟻たちはいつの間にか、また元の行列に戻ってしまう。この蟻の行列の疑問をウイルソンは、蟻の体の仕組みを解明することによって発見する。それは、蟻のお尻から出る「道しるべフェロモン」という、強烈な匂いにあった。蟻は、餌を見つけると、地面に道しるべとなる匂いをつけながら巣へと戻り、仲間たちはそれを頼りにし次から次へと続いていくのだ。その匂いの強さは、掃き取ったり水で流したりしたぐらいでは、決してとれない。それが、あの黒々とした一筋の蟻の行列を生み出しているのだそうだ。
「怠け者よ、蟻のところへ行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」(箴言6:6)と箴言は言う。「怠け者よ」の呼びかけに、とても耳が痛いが、どうも箴言は、この「怠け者」という言葉が好きらしい。その書の中で、この呼びかけの言葉が、10回以上出てくるのだ。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また横になる」(6:10)。なんだか、自分の日常を見透かされているような言葉に、ドッキとする。知恵は昔も今も変わらず、怠惰な者にではなく、勤勉な者にならなくてはならないと諭す。蟻とキリギリスの寓話を持ち出すまでもなく、あの蟻の行列のように、黙々と餌を運び、働く姿こそ人間の理想の生き方と教えるのだ。
しかし、しかし、ちょっと待って欲しい。もし、蟻のところに行き、その道を見て、得られる知恵が、ただ怠けることなく黙々と働くだけと結論するならば、一体、ファーブルやウイルソンが、その生涯をかけ、じっと見続けてきた、あの蟻の行列の知恵は、どうなってしまうのか。宝のありかを見つけ、そこへと至る一本道を、後から続くものたちのために、道しるべを残して行く。残香ならぬ「道しるべフェロモン」を放ちながら。その匂いを頼りに、宝のありかにたどり着いたものは、次から次へとその香りを残しながら帰っていく。そしてそれはいついしか、どんなに妨害されても消えることのない一筋の道となるのだ。
どうだろう、これこそが、永遠の命に至る道を見出した、私たちクリスチャンが、蟻の道から見つけ出す、もう一つの大事な知恵なのではなかろうか。使徒パウロは、手紙の中でこんな言葉を残している。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連らせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Ⅱコリント2:14)と。
私たちは、今コロナの中にあって、自粛生活を余儀なくされている。私も、以前のように自由に好きな時に好きな場所へとは行くことが叶わず、まさに1日1日を、怠惰な、怠け者ののように暮らしている。けれども、ただ忙しく動き回ることだけが、充実した意味ある生き方なのではない。そうではなく、どんな時も、たとえ水を撒かれ、箒で掃かれ、石で邪魔されようとも、福音の「道しるべフェロモン」の香りを、キリストのよき香りを放つものとなりたいものだ。
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