2017/09/19
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ヨハネ15:13
ギリシャの哲学者プラトンの書いた『饗宴』の中で、かつて人間は頭が2つ、手が4本、足が4本の丸い形をし、8つの手足に支えられて輪を描きながら転がっていたという話がある。ところが、だんだんと傲慢になった人間をギリシャの神々は相談し、真っ二つに裂き、頭が一つ、手足が2つずつの男と女にしたのだという。「さて人間の原型がかく両断されてこのかた、いずれの半身も他の半身に憧れて、再びこれと一緒になろうとした。」(『饗宴』より)。その片割れを求める熱情をエロスの愛と呼ぶ。男と女が引き離され、お互いの欠けを求める熱情の愛エロスは、時に美しくまた同時に恐ろしいものである。
昨今のこの国では、政治の世界でも、芸能の世界でも、もともと頭が、4つも、6つもあったのではないかというようなスキャンダラスな男女の愛が大流行りのようだが、それは本来、欠けたものを補い一つになるという純粋なはずの、このエロスの愛が、ただ自らの欲望を満たすためのエゴイスティクな愛に堕ちてしまう性格を持っているからだろう。
またもう一つギリシャ語にはフィリアという愛もある。友愛とも訳されるこの愛は、まさに友を愛し、仲間を大事にする愛だ。「フィリアはお互いに共通の価値を追求する人たちが、友人にとっての善を、自分のためではなく、その友人のために願うというような関係であり、したがってお互いの間に法律の介在を必要としない人間同士の相互関係といえるでしょう」(井上洋治著『日本とイエスの顔』より)。カトリックの井上洋治神父は著書の中でこう語っている。 まるで、今の総理大臣とそのお友達との関係を預言しているかのようである。友達のためなら、法律をねじ曲げてでも通らぬものを通し、しかも、その友をかばいながら、そのために働き、忖度したものを重用する。それは、まさにこのフィリアの愛の姿であろう。
けれども井上神父は続けてこうも書く。「友情による同志の団結は立派なものですが、しかし同時にこの同志が追求している価値を一緒に追求しえないものは、この友情から蹴落とされ脱落者となってゆきます。脱落者となってゆくばかりではなく、同志の人々からはかえって脱落者、裏切り者の烙印を押され制裁の憂き目に会わなければならないということすら起こってきます。」(『日本とイエスの顔』より)。街頭演説で、「こんな人たちには負けるわけにはいかない」と叫んだこの国の権力者の顔を思わず思い出す。フィリアの愛もまた、エロスの愛と同じく、本当に愛していたのは相手ではなく自分自身であったという自己愛の拡張しただけものに過ぎないのだ。では、エロス(情愛)でもなくフィリア(友愛)でもない、本当の愛というものがあるのだろうか。聖書の語る「これ以上大きな愛はない」という愛とは一体なんなのだろうか。その答えこそ、神の愛すなわちアガペーの愛なのである。決して見返りを求めず、敵をも愛し、疎まれても、蔑まれても、ただ黙って十字架を背負い、その友のために命を捨てる愛。神の子イエスキリストの愛。これこそがあらゆるものを凌駕する愛の姿なのである。そして、主イエスは私たちにも、その愛を実践するよう言われるのだ。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:30)と。
「そんなことを我々凡人ができるわけがない」、「それはただの理想であり、綺麗事にしか過ぎないではないか」、「だからキリスト教は人間を知らない、おめでたい宗教なんだ」そんな声が聞こえてくる。いや、私自身の内側からも響いてくるのだ。確かにこんなことは人間の努力や思いでできるものではないだろう。しかし、主はそれをするようにと私たちに命じるのだ。しかも、「友のために命を捨てる」など私にはできないことを先刻承知で、できない私を赦し、深く哀しい眼差しで見詰められ、それでもなお、できるかできないかではなく、せよと命じる。このめんどくさい愛こそが、神の愛なのである。
政治家も、芸能人も、牧師も、信徒も、あなたたちに必要なものはすべて、この愛なのだ。「all you need is love」
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