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榎本恵牧師のコラム

2021/10/29

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。   箴言10:22


古今東西、人類は様々な知恵を誇ってきた。古代エプトやメソポタミアの知恵の書、中国の儒教や老荘思想。ギリシャ哲学、そしてアメリカ先住民族の口伝の数々など。それは、いつの時代にあっても人がよく生きるためには、どうすればよいのかという指針をあたえてくれる。

そしてその意味において、この旧約聖書の箴言もまた同じである。「ソロモンの格言集」と小見出しのつけられた、知恵の言葉の数々もまた、古代ユダヤ人だけでなく、今を生きる私たちにも、その生きる上での示唆を与えてくれる。特に、ここには、経済的な成功を得るためにはどうするべきであるかを、いくつもの言葉をつなぎながら教えるのだ。「不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う」(10:2)、「手のひらに欺きがあれば貧乏になる。勤勉な人の手は富をもたらす」(10:4)、「夏のうちにあつめるのは成功をもたらす子。刈り入れの時に眠るのは恥をもたらす子」(10:5)、そして「金持ちの財産は彼の砦。弱い人の貧乏は破滅」(10:15)などなど。

結局、そこで語られる言葉の多くは、人類共通の「努力した者だけが報われる」という教えに他ならないだろう。信じた者は、何の努力もなしに、大金持ちになるわけではない。棚も、ひと蹴りもしないでは、ぼた餅は落ちてこないのだ。使徒パウロは、テサロニケの信徒に向かってこう言う。「あなたがたの中に怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(Ⅱテサロニケ3:11-12)と。世の終わりが近いと、厭世的に生きる人々に向かって、パウロは落ち着いて働くようにと勧める。「たとえ明日世の終わりが来ようとも、わたしはリンゴの木を植える」とは、まさにこのことである。勤勉であること、それは成功するためでも、天国への切符を手に入れるためでも、ましてや金持ちになるためでもない。人間は、生きている限り、精一杯の努力し、勤勉に働く、それがあらゆる知恵の語るところなのだ。しかし箴言の著者はそれに加えてこう言う。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」(10:22)と。聖書の知恵は、豊かさも、幸せも、実は神からの祝福に他ならないと言う。たとえ人間がどれほどの業をなそうとも、それを遥かに超える神の御手の働きがあることを、私たちは知らなければならないのだ。「天は自らを助くる者ものを助く」ものであると同時に、その人の思いを遥かに超えて、素晴らしい恵みをお与えになる。

私の中学からの同級生で、医師のH君は、会うたびに、「お前のところはセレンディピティ(serendipity)だからな」と言う。「素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また何かを探しているときに、探しているものとは別の価値のあるものを見つけること」(ウィキペディアより)。子供の頃からの私たち一家を知る彼にとって、さして努力するわけでもなく、しかし求めるもの以上のものを手にしているように見える私たちは不思議でしょうがないのだろう。しかし私にとって、彼のこの言葉は最高の褒め言葉だと思っている。確かに、私自身の人生を思う時、この思いがけない幸運、セレンディピティがあふれていたように思う。自分の実力や知恵で得たと思ったものも、実は神から素敵な贈り物に他ならないのだ。そしてそれを知る者こそが、本当の人生の成功者なのだと聖書は言うのだ。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」(箴言10:22)。努力は決して怠るな、けれどもこの世は神の祝福、セレンディピティで溢れている。

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