2021/06/28
主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。 箴言8:22(新改訳2017)
「箴言」はただ古代ユダヤ人の倫理、道徳、哲学の教えでもなければ、いわゆる正しい生活を送るための人生の指南書でもなく、ましてや、世渡り上手の小賢しい知恵を説くものでもありません。
そうではなく、これはまさに厳粛な神の知恵、そのものなのです。
この箴言8章には、「わたし」という言葉が度々出てきます。それは、「知恵」のことをあらわしています。「知恵」を擬人化し、「わたし」として語るのです。ですから、この箴言で語られる「わたし」を、知恵と読み替えることができるでしょう。しかし同時に、この「わたし」を新約聖書の著者たちは、特にパウロは、「イエス・キリスト」その人として解釈しました。
「御子は見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイ1:15)。「主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた」(箴言8:22)。創造の始まる前に、神が得ていた「わたし」を、パウロは「御子イエスキリスト」のことであると解釈したのです。明らかにこのコロサイ書の言葉は、箴言を下敷きにしています。また、ヨハネによる福音書は、その冒頭に有名な「初めに言があった。言は神と共にあった」(ヨハネ1:1)と、イエス・キリストを「言(ロゴス)」と表現し、創造の最初からあったものとします。ですから、その最初からあったものを、「知恵」として、「言(ロゴス)」として、また「御子」として理解しても間違いではないでしょう。ちなみに、パウロは、コリントの手紙の中で、「キリストは、わたしたちにとって神の知恵」(Ⅰコリント1:30)であるとも言うのです。
天地創造の始まる前より共にいた「わたし」。それは、「神の知恵」であり、「言」であり、「イエス・キリスト」そのお方なのである。これが、いわゆるこの世の知恵や知識ではない、聖書の語る知恵なのです。そして、この知恵は、哲学や科学とは違うものなのです。「世のはじまり」とは何か、「言(ロゴス)」とは、「知恵」とは?、哲学者も、科学者も、持てる限りの知性を持って、それらを解き明かそうとします。しかし、聖書の語る知恵は、人間の理性では、どうしても理解することのできないものなのではないでしょうか。
先日、ある方のフェイスブックに載せられた、父榎本保郎の言葉にハッとさせられました。「哲学は知性を根底に置く。わからないことをそのままにしておく哲学はない。それに対して宗教は、悟性というか、悟り、あるいは霊というか、人間の持っている限界を超えた力を基礎にしていくものである」(榎本保郎著「新約聖書1日一章 Ⅰヨハネ4章」より」)。確かに、「無知の知」という、知らないということのあることさえ知るという哲学や、この世の中で科学的に立証されないものは何一つないと豪語する科学とは違い、宗教は、ただ信じる他ないという愚かなものに見えるかもしれません。しかし、そこに、理性や知性を超えた悟性がある、それこそが信仰の世界なのです。
「主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた」(箴言8:22)。「はじめとはいつなのか」、「わたしとは誰なのか」、「得るとはどういう意味なのか」、私たちは、思い、考え、悩むでしょう。しかし、どうかその時には、この先達の言葉を思い出してください。そして、聖霊の働きによってしか、悟ることのできないもののあることを認めてください。これこそが、私たちのもう一つの大切な知恵なのですから。
榎本恵牧師のコラム
-
貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。
(2023/07/31) -
水が顔を映すように、心は人を映す。
(2023/06/21) -
犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は、自分の愚かさを繰り返す。
(2023/05/29)