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榎本恵牧師のコラム

2017/12/18

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。    ヨハネ1:23


2018年の干支は「戌(いぬ)」だそうだ。もちろん、それはあの「ワンワン」吠える犬のことではない。誰もが覚えやすいようにと「ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ・・・」と動物に置き換えあらわした十二支だが、本来はそれとは全く関係なく、意味も違うという。だから、戌年生まれの人は、辺り構わずよく噛み付く訳ではない。それよりはむしろこの「戌」の文字には、「滅」の意味があり、草木が枯れる状態を表しているという。(ウキペディアより)また、「一(いち)」と「戈(ほこ)の字が合わさって、作物を刃物で刈り取り、ひとまとめにすることだとも言われている。いずれにせよ、そこには動物の犬を思わせるものは一つもない。しかし、ただ「滅」や「枯れる」そして「刈り取る」などの言葉から2018年の「戌年」を何か不吉な年と連想することは早合点というものだ。農事暦の要素もある干支の最後から二番目の「戌」は、旧暦の9月、時刻は午後8時前後のことで、まさに収穫を終え、秋から冬へと移りゆく、刈り取りの後の静かで少し物悲しい畑の姿を連想させる。そんな一仕事を終え、落ち着いた穏やかな姿こそ、本来の「戌」年の姿なのかもしれない。

ところがどうだろう、私たちの目の前の世界は、そんなのんびりとした秋の黄昏の雰囲気とは真逆の様相を呈しているではないか。東アジアでは核戦争の危機が叫ばれ、中東ではエルサレムの首都をめぐって怒りが湧きあがり、一気に混沌として来た。自国を第一と考える指導者たちがもてはやされ、社会からは弱者や自分と異なる者に対する寛容さが消え去り、残るのは排除の論理とますます広がる貧富の差ばかり。期待していたはずの「成熟した社会」も、すっかり老後の不安を抱えたままの先行きの見通せないものへと変わり果てる。果たして私たちの世界は、本当に正しい方向へと向かって進んでいるのだろうか。悲惨な戦争を記憶ではなく、記録としてしか経験していない私たちが、あの勇ましい掛け声たちの先にある結末を想像することができるのだろうか。老後の年金など当てにならず、皆自分の生活で精一杯の中で、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)などという言葉は、絵空事に過ぎないと鼻で笑われるほかないのだろうか。

考えれば考えるほど、私の声など、犬の遠吠えのようにしか聞こえて来ない。インターネットの大海の中に浮かぶ小舟の中の叫びなど、誰も聞きはしないだろう。またこの狭い日本のキリスト教界の中でも、ちっぽけなアシュラムセンターの影響力などたかが知れているだろう。けれども、それでも私は、叫び続けようと思う。洗礼者ヨハネが、遠くヨルダン川の「荒野で叫ぶ声」であったように、この年も「主の道をまっすぐにせよ」と叫び続けていくものとなりたい。

かつて、アシュラムセンター創設者榎本保郎牧師は、こう語った。「アシュラム運動が広がっていくことではなく、キリスト信徒一人一人の生活の中に、日々新しく主の養いを受ける密室が守られていくことを願いつつ、呼ばわる「声」としての使命に徹したい。これが新しくアシュラム運動に専心した私の決意である。全国のアシュラムの友よ、どうか私のために祈ってほしい。また「密室」の喜びを証し、広げていく器となってほしい。やがてこのセンターの開所式の挙げられる日を望みつつ。」(榎本保郎著「聴くこと祈ること」より)

戌年を望みつつ、荒野で叫ぶ声に徹してゆきたい。

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