2016/12/23
ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。 詩篇149:1
「一年の計は元旦にあり」新しい年を迎えるにあたり、大晦日の除夜の鐘の音を聞きながら、心静かに、これから始まる一年の計画を、心に思い描く。私たちは、なんとなくこの言葉の意味をそんなものとして思い込んでいるのかもしれません。けれども、新しい年の計画を、その年が始まるその時に考えているようでは、もう遅いのではないでしょうか。もちろん古いものと新しいものとが出会う一瞬の時を、心改まるものとして大事にすることは、大切なことです。けれども、これから始まる新しい年になすべきことは、実はもうその前の年に、いやもうすでに随分と前に種蒔かれ、準備されていなければならないのです。しかも、その種蒔きも決して始まりではなく、その前に、畑を耕し、畝を立て、草を取る、そんな時々の準備の賜物に他なりません。そういう意味で、新年の計画は、除夜の鐘を聞くときには、もうすでに終わっていなければならないのです。
「武士道」を書き、日本人の心を世界に紹介した新渡戸稲造博士は、こんなことを書いています。「僕は大晦日より元旦にかけて、明年は何をするという決心を書き、実行を心がけている。」(「修養」より)と。さすが、クエーカーの信仰者として、また「太平洋の架け橋とならん」と第一次世界大戦後の国際連盟事務次長として活躍された博士の言葉は含蓄深いものです。「迎年の準備」と題されたこの書には、新しい年を迎える前に、一年の日記を繰り返し見ること、一年中の恩人に対する回顧をすること、そして過去の悪かりしことを顧みることをせよと命じておられます。これから始まる新しい計画や決心も、実は過去を顧みることのうちにしか、始まることはできません。
聖書の中には、度々「新しい歌を歌え」という言葉が出てきます。しかしこれは何も新式の賛美を歌えということではありません。それよりはむしろ、神の与えられた約束と計画を常に思い起こし、心新たにし、再び前進していこうという意味があるのです。
さて、みなさん、これを読んで、大慌てしないでくださいね。またもう時間がないと諦めたりしないでくださいね。新渡戸博士は、最後にこんな言葉を残しています。「新年を迎うるに、新思想と新決心を持ってした経験を有する人も必ず少なくなかろう。日記を書くことも毎年まっとうしなかったし、その他種々の工夫を案出しては、ことごとく失敗したから、もう新たに始める勇気がなくなったと自暴自棄に傾く人もあろうか。かかる人には僕は「もう一度やりたまえ」と絶叫したい。一度倒れたら一度起き上がればよいではないか。良きことはただ三日坊主やっても、その及ぼすところは三日や三ヶ月にはとどまらぬ。善事はいかに小事なりとも、活力が潜んでいる。善事はいかに短期間なりとも永く死なぬ。ゆえに善事はいかに小さなことでも、ちょっとの間でも行うにしかぬ。新年三日間でもよいから心がけを正しくしたい。」
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