2016/12/08
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 ヨハネ2:7
「村祭りの酒」という寓話があるそうだ。村の広場に設えられた大きな樽に、酒を注ぎ、祭りの当日飲んで祝おうと、村人たちは、それぞれの家から酒を持ち寄った。ところが当日、その樽から汲んで飲んだ酒は、ただの水だったというのだ。「自分一人水を入れてもわからないだろう」と、実は村人みんなが同じように考えていたという笑い噺。しょせん人間は、自分のことしか考えない。誰がやったかわからないと思えば、酒を持ってこいと言われても水を持ってくる。本音と建て前を使い分け、裏と表を上手に生きる。匿名性の弊害などと言ってしまえば、簡単だが、しかしことは、笑い話だけではすまされない。
今や、この人間の隠れていた 本性が露わにされ、世界中が騒然としている。あの、自由と平等が国是とされ、少数者や女性の人権が尊ばれる国と思われていたアメリカの大統領に、それを真っ向から否定するような人物が選ばれたのだから。移民を排斥し、イスラム教徒の入国を拒否すると宣言する。挙句、メキシコとの国境に、万里の長城のように壁を築くというのだから。しかしこの「アメリカファースト(アメリカ一番)」を叫び、自分の国に有利になることしかやらないと平然と嘯く人物に、多くのアメリカ人が喝采を送り、さながら「村祭りの酒」のように、投票したのだ。まさか、あの国で、このような大統領が生まれようとは、誰もが思いもしなかっただろう。けれども実は、私たちの国でも、同じような状況にあるのではないだろうか。特定の国の人々に対するあからさまなヘイトスピーチが声高に叫ばれ、今までならば、決して許されないような差別発言が公の権力者の口から出てくる。差別や偏見を無くそうとか、平和や人権などを訴えることが、綺麗ごとだと嘲笑われ、気がつけば、表向きは政治的正しさ(political correctness)に賛同しながらも、心の奥ではそれにもう疲れ果ててしまっている声の方が圧倒的になってくる。
祭りの当日、飲んでみてはじめて水だったと騒いでいるけれども、よく考えれば、酒など最初から誰も入れていなかったのだ。誰もが驚いた大統領選挙も、沖縄の基地反対運動に対する機動隊員の暴言も、実は皆その根は同じなのだと思う。そして、世界はそのむき出しの本性を現し始めている。ヨーロッパも、中東も、アジアも。これから向かっていこうとするそんな世界を考えるとき、暗澹たる気持ちになるのは、私だけではないだろう。 けれども、私は、もう一つの真実も知っている。酒を水に変えるのではなく、水を酒に変える方のことを。そう、イエスキリストは、最初の奇蹟を、カナという町の婚礼の席で行われた。ブドウ酒がなくなり慌てふためいている者たちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じ、その水を酒に変えられたのだ。それは、全く信じられないおとぎ話に思えるかもしれない。イエスの言葉を信じ、水を汲み入れることなど、愚かなことに見えるかもしれない。嘲笑われ、綺麗ごとだと切り捨てられるのがオチだろう。
けれども、それでも、水がめの口まで水を満たしたものだけが、その奇蹟の業を見ることができたのだ。
私は、選挙結果の判明した夜、ニューヨークのトランプタワーの前で、サインボードを掲げた歌手レディガガの姿が忘れられない。 「愛は憎しみに打ち勝つ(LOVE TRUMPS HATE)」私もまた、主の命じられた言葉の通り、水がめに水を注いでいくものとなりたい。
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