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榎本恵牧師のコラム

2019/11/01

むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。   エフェソ5:18


禅問答に「放下著(ほうげじゃく)という言葉があるそうだ。一切のものを投げ捨てる、捨て去るという、その言葉の意味は深い。ある一人の修行僧が、長く厳しい修行の結果、無一物という境地に達することができた。ついてはこの後どんな修行をすれば良いかと老師に尋ねたところ、師はたちどころに一言「放下著」と言い放たれたいう。「お前のその捨てたという思いまでも捨て去れ」との言葉は奥深く、唸らされるものだ。


確かに、私たちは捨てられぬものをいつも抱えている。憎しみや怒り、自尊心や自惚れ、いやそんな高尚なものどころか、部屋の中には捨てきれないモノで溢れかえっているではないか。「捨てきれない荷物の重さ前後ろ」(種田山頭火)とは、よく言ったものだ。どんなに努力し、魔法の整理術を駆使し「心のときめき」に聞いても、私たちにはどうしても手放せないものがある。


この間行ったニューヨークの教会員の方に聞いたのだが、ニューヨークの企業では、社員が就業時間の間に、ヨガをしたり、瞑想をしたりする時間が推奨され、保障されているのだそうだ。厳しいビジネス環境とますます複雑化する社会の中で、ひとときそこを離れ、心を無にし、体を整えることは、生産性の面からも大変有益なことであり、社員のメンタルヘルスにとっても効果があるという。今流行りの「マインドフルネス」とは、まさにこの捨て去るという事なのだろう。抱えきれぬほどの荷物を、まず手放し、その心の中を空っぽにすること。怒鳴り散らすだけの上司や無理難題のクレームばかり突きつける顧客に支配されている心の中を空にし、捨て去り、強張ってしまっている体をほぐし伸ばす、それはまことに大事なことであり、現代のストレス社会を生きる私たちにとって大切なことに違いない。けれどもそれが難しいのだ。


私たちのアシュラム運動も、時々そんな「マインドフルネス」の一種ですかと尋ねられることがある。しかしそんな時、私は必ず答えてこう言うことにしている。「いいえ、私たちのアシュラム運動は、空っぽにするのではなく、反対にいっぱいに満たすことなんですよ」と。 心の中を、空っぽにすること、それはまことに大切なことである。誰しもがそのようになれたらと願っている。けれども、たとえそれが一時空っぽになったとしても、また新しい悩みや問題が私たちの心を支配するのではないだろうか。「空っぽになった、スッキリした」と言ったところで、それはまた堂々巡りするだけ。ただ「放下著」と喝破されるのみなのである。


聖書はそんな心の状態を、一つの例えを持って的確に物語っている。「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に帰ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなるとその人の後の状態は前よりも悪くなる。」(マタイ12:44−45)


私たちが聖書のみ言葉に聴き、祈るのは、私たちの心を空っぽにするためではなく、私たちの心を聖霊で満たしていただくためなのだ。確かに聖書に静かに向かい黙想する姿は、瞑想や座禅などと同じことのように見えるかもしれない。けれども、私たちはその黙想の中で、いつも十字架の主を思い起こし、復活の主の喜びで心を満たすのだ。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(エフェソ5:18)これこそが、私たちクリスチャンの「放下著」なのだ。

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