2018/07/03
まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。 詩篇112:4
今年も6月21日から24日まで、「沖縄巡礼の旅」に行ってきた。23日の沖縄戦戦没者追悼の「慰霊の日」を挟み、今年も6名の参加者とともに、大変意義深い旅ができたと思う。
恒例の糸満市糸洲にある「第2外科壕」前での慰霊祭には、一燈園の故石川洋先生ゆかりの方々が集まってくださった。30数年前に、先生が400柱に余る遺骨を収集し、沖縄戦での戦没者の慰霊を行なって以来、欠かさずそれは続けられている。そこには沖縄琉球王家の末裔 井伊文子さん揮毫の「ぬちどたから(命こそ宝」」の碑が鎮座し、もう二度とこのガジュマルの鬱蒼と茂った森を、人殺しのために使ってはならぬと静かに語っている。訪れる人もほとんどなくなった壕の周りの倒木をかたずけ、草を刈り、一年に一度その場を掃き清めることで始まる私たちの慰霊祭は、キリスト教、仏教、そして地元沖縄の儀式が順番に行われる。賛美歌が歌われ、聖フランチェスカの平和の祈りとともに、般若心経が唱えられる不思議な慰霊の時だ。クライマックスは琉球独特の「ぶくぶく茶」の献茶とともに、沖縄伝統の霊前の儀式が行われる。線香の火ともに「うちかび」という死後に使うお札が燃やされ、最後に備えられた果物やお菓子を、ぶくぶく茶と一緒にいただく。それは死後の世界と生者の世界が一つに繋がり、供食を愉しむと言う。
そんな沖縄独特の慰霊の日を経験し、私たちは、翌日伊江島を訪れた。私にとっては、懐かしいこの島で、心地よい海風にあたり、三線の調べに心和ませていた中、しかし厳しい現実の話を聞かされ、心が痛む。それは、故阿波根昌鴻さんの造られた反戦平和資料館館長謝花悦子さんの話だ。彼女は大きくため息をつくと、島の米軍基地が、どんどんと整備され、強化されてしまっている現実を、高ぶる感情を抑えきれぬように語られた。阿波根さんが、農民学校のためにと残されて行った土地は、今や最新の軍用機の巨大な滑走路と化し、工事のために掘り返した土地からは、大量の不発弾が見つかり、その処理のために爆音が、この慰霊の日を前にして、何日も鳴り響いたという。しかも、この現実を前にして、誰一人として声をあげるものがいない。そう語る彼女の声は、悔しさと怒りに満ち溢れていた。
私たちは、本当の沖縄を知らない。いや、知らないのではなく、無視しようとしているのに違いない。沖縄の73年前の戦争の悲しみと傷も、それから続く怒りと悔しさも、私たちが少し目を向ければ溢れかえっている。けれどもそれはいつも無視される。
沖縄県主催の23日の慰霊祭で、膵臓ガンを患い、痛々しい姿を晒しながらも声を振り絞った、翁長雄志知事の辺野古の新基地建設反対の想いも、日本政府は耳を貸そうとはしない。アメリカの求めには、簡単に応じ、数千億円もの武器を買うのに。私たち国民の多くも、隣国との間で平和を作ることよりも、仮想敵国を想定し、それに備え、警戒することこそが平和の道であると信じ込んでしまっている。そして、そのためには誰かが犠牲になることはいたしかたないことだと、沖縄の現実から目をそらす。いや、それどころか、飴とムチで沖縄の民意はどうにでもなるものとタカをくくっているのかもしれない。
そんな沖縄の未来は暗澹としたものなのか。地の民の声は、結局巨大な権力によって踏みにじられてしまうしかないのか、しかし、私はそうは思わない。
「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」(詩篇112:4)のだ。あの小さな島には、決して負けない人たちがいた。いや負けても勝つ人たちがいたのだ。まっすぐな人、決して権力に媚びず、自分の信じるところに立つ人。要領よく生きることより、正しく生きることを選ぶ人。そんな人たちが、この島からは次々と生まれてくるのだ。
日本復帰前、米軍支配下の那覇市で、決して強大な米軍に屈することなく市長として戦った、瀬長亀次郎さんは、何度も投獄されながらも、その信念を貫き通し、「アメリカが最も恐れた沖縄の男」と呼ばれたという。その彼を励まし続けたのが、母の言葉だったと言う。「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー(むしろの綾のように真っ直ぐ生きるんだよ)」。
さあ、私たちはどう生きよう。むしろの綾のように、まっすぐな人として生きる時、それは必ず負けても勝つ。暗闇の中にも光が昇る。
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