2017/01/16
ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 ルカ13:8
2017年が始まり、早いものでもう、半月が過ぎようとしています。私たちはこの年をどのような思いで迎え、今この場所に立っているのでしょうか。去年と変わらぬ今年。新しいことなど何一つない毎日。なんだか、人生は同じことの繰り返しのうちに、あっという間に終わってしまうものなのかも、そんな思いがふと湧いてくるのです。私も牧師をやっていて、なかなか思うようにはいかない現実に、時々「どうしてですか、神様」と叫びたくなることがあるのです。
今年映画化された遠藤周作の小説「沈黙」の中に、こんな印象的なシーンがあります。主人公のロドリコが尊敬する師フェレイラをようやく探し当て再会するという大事なシーンです。なぜ師は、棄教したのか、はるばるローマから、キリスト教禁制化の日本にやってきた主人公に、今や宣教師を辞め、名を改め妻帯し、幕府のために働くフェレイラはこう語るのです。「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根は腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」
私たちの国日本にどうして、キリスト教が根付かないのか、遠藤はそれを沼地に蒔かれた種であるからだと言うのです。道端に蒔かれた種、石だらけの地に蒔かれた種、茨の生い茂る地に蒔かれた種、イエスは種を蒔く人の喩えを語ります。確かに、悪い土地に蒔かれた種は、芽も出ず、枯れ果て、腐るものなのでしょう。人口の1パーセント未満のクリスチャン人口のまま、長年ずっと推移し、少子高齢化で、教会の維持もままならないという日本のキリスト教。この国での伝道の困難さを、今この世界を覆っている押しつぶされそうになる重圧を思うとき、私たちはズブズブと底なしの沼の中に落ち込んで行きそうになリます。この国にキリスト教は根付かないのか、それとも日本人に合ったキリスト教に変質させるべきなのか。みな大いに悩んでいるのです。
けれども、その時、私にはもう一つの主の喩えの言葉が聴こえてくるのです。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでだめなら、切り倒してください。」(ルカ13;8ー9)と。こんな体たらくの私たちをかばい、来年も、来年もと土を耕し、肥料を入れてくださる方がいる。伝道は人数を増やし、教会の維持をするためにするのではありません。このすぐに切り捨てられてもおかしくないものを許し愛する方を一人でも多くの人に知ってもらうことこそ、伝道なのだと、私は今年も自らを鼓舞しています。種は蒔かれているのです。蒔くという漢字はくさかんむりに時と書きます。その時を信じて、蒔いて行きます。
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