2016/08/21
この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。 マタイ26:13
先日、久しぶりに沖縄へ行ってきました。飛行場から乗った「ゆいレール」の中は、たくさんの観光客でいっぱいでした。車窓の景色を眺めながら、なんとはなしに、聞こえてくる2人の女子の会話。どうやら、前に来た沖縄の美味しいお店の話をしているようです。すると、一人の彼女が「私こないだも、沖縄来たけど、栄町の「うずりん」っていう居酒屋へ行ったのよ。」と自慢そうに言うではありませんか。「うずりん?」私は思わずつぶやいてしまいました。「それを言うなら、「うずりん」じゃなくて「うりずん」だろう」訂正してあげようかとも思いましたが、やめておきました。
「うりずん」とは沖縄の梅雨入り前の初夏の頃を指す言葉です。美しい花々が咲き始め、空の青も海の青も一段とくっきりと映り出す、そんな美しい「うりずん」の季節は、しかし同時に沖縄にとって、痛みと悲しみの追悼の季節でもあるのです。71年前の4月から、3ヶ月余り続いた沖縄戦は、20万人とも言われる犠牲者を生み出し、その中には多くの非戦闘員、すなわち凄まじい地上戦に巻き込まれ亡くなっていった子供たちや女性、お年寄りがいました。この「うりずん」の季節は、沖縄全体が喪に服する季節でもあるのです。71年の年月とともに、その戦争を直接知る人は激減してきます。けれども、その戦争の記憶は、直接それを経験した人たちがいなくなっても、消えるものではありませんし、また消してはならないものだと思います。
かつてイエスが、まだ十字架へかけられる前、一人の女が、極めて高価な香油をイエスの頭に注ぎかけるという出来事がありました。それを見た弟子たちは憤慨し、その高価な香油を売って、貧しい人に施すべきだと主張しました。ところがそれに対し、イエスはこう言われたのです。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」そして、続けてこう言ったのです。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ26:13)と。
この女が誰であったのか、聖書は語っていません。しかし、この女のしたことは、こうして時を超え、場所をこえて語り継がれているのです。
愛するとは何か、義(ただし)さとは何か、悼むとは何か。香油を注いだ女と、その女の行為に憤った弟子と、そしてそれを静かに諌めたイエスの眼差し。それは71年目の夏の日を生きる私たちに、今も、語り続けられているのではないでしょうか。潤い初め(うるおいぞめ)が語源のうりずんの季節、涙で潤う沖縄を忘れてはなりません。
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